達谷窟毘沙門堂を目の当たりにした参拝者がまず息を呑むのは、高さ数十メートルにおよぶ凝灰岩の断崖と、その窪みにぴったりと組み込まれた堂宇の異観です。一体なぜ、このような峻険な場所に社殿が建てられたのでしょうか。その起源は平安時代初期の延暦20年(801年)にまで遡ります。
当時、この地は大和朝廷に従わない蝦夷(えみし)の首長・悪路王(あくろおう)や高丸(たかまる)らが本拠地とし、巨大な岩窟に砦を築いて立てこもっていたと伝えられます。これに対し、朝廷の命を受けて東北へ下向した征夷大将軍・坂上田村麻呂は激戦の末に悪路王軍を討伐。戦勝を果たした田村麻呂が、武神である毘沙門天の加護に感謝し、京都の清水寺に倣った「舞台造り(懸造り)」の堂宇を岩窟内に建立したのが始まりとされています。
田村麻呂は討ち取った敵味方の御霊を鎮撫するため、窟内に108体もの毘沙門天を祀り、岩壁の形状に沿わせて柱を立てました。現在見られる建物は、度重なる火災を経て昭和36年(1961年)に再建された5代目の堂宇ですが、基礎となる岩肌や周囲の厳かな空気感は1200年前と変わりません。自然の脅威と人間の祈りが融合したこの建築は、まさにみちのくの歴史の荒波を生き抜いてきた動かぬ証拠です。