彼女のキャリアを語る上で避けて通れないのが、1998年秋の早稲田大学教育学部への合格と、翌1999年春の入学を巡る騒動です。
当時導入されたばかりの自己推薦入試(現在の総合型選抜・AO入試に類するもの)での合格は、ワイドショーやスポーツ紙によって連日センセーショナルに報じられました。1999年4月の初登校日には、早稲田キャンパスの正門前に300人以上の報道陣と数千人の一般学生・野次馬が殺到。ヘリコプターが上空を旋回する異例の厳戒態勢となり、一般の講義運営に支障をきたすほどのパニックを引き起こしました。
インターネット上や当時の週刊誌では、「ほとんど大学に通っていない」「特別扱いではないか」といったバッシングが一部で巻き起こりました。しかし、現場の取材記録と関係者の証言を丹念に検証すると、実態は大きく異なります。
実際には、本人が登校しようとするたびにキャンパス周辺にカメラマンが張り込み、他の学生の安全確保が困難になるという「構造的な通学不能状態」に追い込まれていました。自著『ヒロスエの思考地図』や後年のインタビューで明かされている通り、当時の彼女は「普通の学生として学び、友人と過ごしたい」という強い希望を持っていたものの、過熱するマスコミスクラムによってその権利を奪われていたのが実相です。
この大学時代の苦悩とプレッシャーは、彼女が「大衆に作られた完璧なヒロスエ」という虚像と「一人の人間としての自分」との間で激しい葛藤を抱えていた決定的な証拠でもあります。