上野恩賜公園に立つ西郷隆盛像の傍らに控える犬は、一般に「ツン」として解説板などでも案内されています。しかし、美術史や近代彫刻の調査報告書を精査すると、そこには制作上の都合から生じた驚くべき「モデルの真相」が浮かび上がってきます。
銅像の制作を担当したのは、近代日本彫刻の巨匠・高村光雲(西郷本人を担当)と、明治期を代表する動物彫刻の大家・後藤貞行(犬を担当)でした。明治20年代、西郷の名誉回復に伴って銅像建立プロジェクトが始動した際、すでに本物のツンはこの世を去って久しい状態でした。写真技術が未発達だった幕末から明治初期、ツンの鮮明な写真などは残されておらず、後藤貞行は「実物のツン」を直接見て彫刻することが不可能だったのです。
そこで後藤は、ツンの面影を持つとされる純血の薩摩犬を求めて方々を探し歩きました。最終的にモデルとして採用されたのは、当時の陸軍参謀総長などを務めた川上操六や旧薩摩藩士のネットワークを通じて見つけ出された「サワ」という名のオスの薩摩犬でした。さらに、薩摩犬特有の骨格を正確に捉えるため、東京・浅草付近で見出された別のオス犬なども補助的なスケッチモデルとして使われたと、高村光雲の回顧録『光雲懐古談』にも記録されています。
ここで最大の歴史的ギャップが生じることになります。実物のツンは「ピンと立った耳と巻き尾を持つメス犬」であったのに対し、後藤貞行がモデルにしたサワは雄犬であり、完成した上野の銅像の腹部下にも明確に雄(オス)の特徴が造形されています。つまり、上野の銅像にいる犬は「名前はツンだが、造形された肉体はサワという名の雄犬」という、二重のアイデンティティを持つ美術的産物なのです。