各地の寺を追われ、心身ともに限界を迎えていた放哉が最後に辿り着いたのが、瀬戸内海に浮かぶ香川県・小豆島でした。1925年(大正14年)8月、井泉水や支援者の尽力により、放哉は小豆郡渕崎村(現在の土庄町)にある西光寺奥の院「南郷庵(みながらあん)」の堂守として迎え入れられます。
南郷庵での生活は、決して優雅な隠遁ではありませんでした。持病の結核(喉頭結核・湿性肋膜炎)が悪化し、発熱と激しい咳込み、貧困と隣り合わせの凄惨を極める日々でした。しかし、この絶海の孤島のような小さな庵こそが、放哉の文学的極致を花開かせる舞台となったのです。
近隣の島民から時には煙たがられ、時には温かい施しを受けながら、放哉は庵の縁側から海を眺め、死の気配を肌で感じつつ句を紡ぎました。
「咳をしても一人」
風邪と結核の咳で胸を激しく痛めながら、ふと静まり返った庵を見回したとき、そこには看病してくれる者も、心配の声をかけてくれる者も誰もいない。自らの咳の反響だけが暗い部屋に虚しく消えていく——。この絶対的な孤独を描いた一句は、南郷庵での極限状態から産み落とされたものでした。
そして1926年(大正15年)4月7日、尾崎放哉は隣人に看取られることもなく、南郷庵の冷たい畳の上でひっそりと息を引き取りました。享年41。死因は結核でした。