この歌が生まれた背景と経緯には、平安文学史屈指のドラマチックな舞台裏が存在します。時は寛弘5年(1008年)春。一条天皇の御世、一条天皇の中宮(のちに上東門院)である藤原彰子のサロンでの出来事でした。
奈良の興福寺の僧正・定澄から、宮中へ見事な八重桜が献上されました。御所へと届けられたその桜の枝を受け取り、風雅な返答の和歌を一首添えて使者に返すという重責が生じます。この晴れ舞台の場には、一条天皇をはじめ、時の権力者・藤原道長、そして名だたる公卿貴族たちが居並んでいました。失敗は決して許されない、宮廷の面目をかけた極度の緊張感が漂う場面です。
当時、彰子後宮の筆頭女房として揺るぎない名声を確立していたのが『源氏物語』の作者・紫式部でした。本来であれば、この重大な役目は宮廷きっての才媛である紫式部が担うのが当然の筋道でした。しかし、紫式部は自ら進み出ることをせず、宮仕えを始めたばかりの新参者であった伊勢大輔(大中臣輔親の娘)の袖を引き、「新参のあなたがお詠みなさい」とその大役を譲り渡したのです。
後世の逸話集『古今著聞集』や私家集『伊勢大輔集』の詞書などにも記されているこのエピソードについて、近現代の読者からは「紫式部は新人を試していじわるをしたのではないか」「失敗させて恥をかかせようとしたのでは」といった疑念が持たれることがあります。しかし、当時の宮廷社会の力学と当事者たちの記録を精査すると、まったく異なる真相が浮かび上がってきます。
伊勢大輔の生家である大中臣氏は、伊勢神宮の祭祀を司る名門神職家であり、父の輔親、祖父の能宣(三十六歌仙の一人)ともに高名な歌人という「和歌のエリート家系」でした。伊勢大輔の卓越した和歌の才能を誰よりも早く見抜いていた紫式部は、畏縮しがちな新入りに権力者の前で決定的な実績を作らせ、後宮での地位を確立させるための「千載一遇のチャンス」をあえて譲ったのです。紫式部自身の自意識と後輩への教育的配慮が複雑に交錯した、極めて洗練された宮廷的差配であったことがうかがえます。