事件の輪郭を正確に把握するには、当時の日本が置かれていた国際的立場と、訪日したニコライ一行の足取りを追う必要があります。外交史料館や宮内公文書館の記録によると、皇太子ニコライの東方遊学は、ウラジオストクで行われるシベリア鉄道建設の起工式に出席することが主目的でした。長崎、鹿児島、京都などを巡る日本滞在は、随行員や日本の歓待もあって極めて友好的に進んでいました。
事態が一変したのは、琵琶湖遊覧を終えて京都へ戻る途上でした。大津町三本骨(現・大津市京町)の狭い通りを、人力車に乗ったニコライ一行が進んでいた午後1時45分頃、警備にあたっていた滋賀県警察部巡査・津田三蔵が突然抜刀し、ニコライの頭部へ斬りかかったのです。ニコライは側頭部を負傷して人力車から飛び降り、路地へ逃げ込みました。
この凶行を体を張って食い止めたのが、同行していたギリシャ王子ゲオルギオスと、人力車を引いていた車夫の向畑治三郎および北賀市市太郎でした。ゲオルギオスが竹の杖で津田の刀を払い、二人の車夫が組み伏せて取り押さえたことで、皇太子の命は奇跡的に留め止められました。しかし、超大国ロシアの後継者を自国の警察官が白昼堂々襲撃したという事実は、開国からわずか四半世紀余りの明治政府を恐怖の底へ突き落とすことになります。