靖国神社の位置づけを決定的に変えたのが、1978(昭和53)年10月17日の秋季例大祭における「A級戦犯」14柱の合祀です。このA級戦犯合祀の経緯は、当時の松平永芳宮司の強力な主導によって進められました。松平宮司は東京裁判を「勝者の裁き」として不当視し、裁判で有罪判決を受けた元指導者たちを「昭和殉難者」として名誉回復させる意図を持っていたことが、当時の関係者証言や記録で判明しています。
厚生省引揚援護局(当時)が作成・提供していた「祭神名票」に基づき、実務的な事務連絡を経て神事として秘密裏に執り行われたこの合祀は、翌1979年4月に報道各社によってスクープされ、国民的な激震をもたらしました。
この合祀が皇室と神社の関係に決定的な亀裂を生じさせた事実は、後年の一級史料によって裏付けられています。昭和天皇は戦後も8回にわたり靖国神社に親拝されていましたが、1975年11月を最後に足が途絶えていました。その謎を決定的に解明したのが、2006年に日本経済新聞が報じた元宮内庁長官の「富田メモ」です。
手帳に記された天皇の発言記録には、「私は あれ以来 参拝していない それが私の心だ」「松平が合祀したからだ 松平は平和に熱心であった親(松平慶民元宮内大臣)の心も知らずに」という生々しい心情が綴られていました。合祀された白鳥敏男や筑波藤麿、松平永芳の名を挙げながら示された強い不快感は、徳川義寛侍従長の日記などの関連証言とも完全に一致しています。結果として昭和天皇のみならず、上皇陛下、今上天皇に至るまで、合祀以降の天皇親拝は一度も行われていません。
「問題解決のために分祀すればよい」という意見が政治側から度々提示されますが、神社側は「神道教理上、一度座を同じくして合祀した御霊(みたま)を切り離すことは不可能である」として一貫して拒絶しています。宗教法人としての自律性と教理の壁が、妥協の余地を狭めているのが実情です。