インターネット上の簡易的な解説ページや個人ブログにおいて、結句「花落知多少」の解釈に明らかな誤謬が散見されます。典型的な誤解が、「どれほど多くの花が散ったか知っている」という肯定・断定の訳です。
漢文訓読における「多少」は、現代語の「多いか少ないか(分量)」という意味ではなく、「どれほど多く」「どれほどたくさん」という反語的・感嘆的な疑問詞として機能します。したがって、「知多少」は「知っている」という意味ではなく、「いったいどれほど散ったことであろうか(知る由もない、想像もつかない)」という詠嘆を含んだ強い推量を意味しています。
さらに深く鑑賞するならば、ここで詠まれている「花」とは具体的に何の花なのかという点です。日本の読者は「花=桜」と自動的に連想しがちですが、孟浩然が生きた盛唐期の中国・長江中流域(湖北省襄陽周辺)において、春を象徴する花といえば主に「桃」や「李(すもも)」、あるいは「海棠(かいどう)」でした。桜のような一瞬の吹雪ではなく、濃厚なピンクや白の花弁が泥混じりの地面に叩きつけられている情景。色鮮やかな春の生命が嵐によって無惨に失われた情景を思い浮かべるからこそ、結びの言葉に深い悲哀が宿るのです。