大和朝廷に激しく抗った蝦夷の歴史とは、単なる反乱の連続ではありません。国家が威信をかけて送り込んだ数万規模の正規軍を、わずかな在地部族が完膚なきまでに打ち破り続けた「自由を守るための防衛戦争」でした。では、なぜ彼らはそこまで朝廷から恐れられたのでしょうか。その背景には、教科書では語られない蝦夷大和朝廷抵抗理由と、当時の最先端軍事テクノロジーの存在がありました。
朝廷が東北へ侵略の手を伸ばした最大の動機は、北上川流域に眠る莫大な「砂金」、良質な「軍馬」、そして高級毛皮などの戦略物資の収奪にありました。朝廷は多賀城(宮城県多賀城市)や伊治城(同栗原市)といった軍事拠点を次々と築き、税の取り立てと農民の強制移住を推進しました。生活の場を土足で踏みにじられた蝦夷の人々にとって、武器を取ることは生存をかけた必然の決断だったのです。
そして789年(延暦8年)、胆沢(現在の岩手県奥州市)の軍事指導者・大墓公阿弖流為(アテルイ)の名を日本全土に轟かせる決戦が勃発します。「巣伏の戦い」です。征東大将軍・紀古佐美率いる朝廷軍約5万2,000人に対し、アテルイと盤具公母礼(モレ)が率いた蝦夷軍はわずか1,500人程度でした。『続日本紀』の生々しい記録によると、アテルイは少数の兵で朝廷軍をおびき寄せ、北上川を渡らせて足場が乱れたところへ一斉に伏兵を放ちました。結果、朝廷軍は戦死・溺死者1,000人以上、負傷者1,200人以上を出し、壊滅的な敗走を喫したのです。
朝廷が蝦夷を心の底から恐れた理由は、その圧倒的な「機動力」と「武器の質」にありました。蝦夷の戦士たちは幼少期から馬を乗りこなし、全速力で疾走しながら正確に弓を射る「騎射」の達人でした。さらに、彼らは東北の豊かな砂鉄資源を活かし、朝廷の直刀を凌駕する反りを持った強靭な刀剣(蕨手刀)を自前で製造していました。大軍を山林深くに誘い込み、補給路を断って一撃離脱を繰り返すゲリラ戦法に対し、律令国家の重い歩兵軍団は成す術がなかったのです。