バンドネオンを語る上で避けて通れないのが、演奏家たちから畏怖を込めて呼ばれる「悪魔の楽器(El instrumento del diablo)」という異名です。この言葉は決して単なる比喩や誇張ではなく、演奏工学的に見て極めて合理的な根拠に基づいています。
第一の理由は、「完全なる配列の不規則性」です。ピアノであれば左から右へ半音ずつ規則正しく鍵盤が並び、ギターであればフレットごとに音程が上がります。しかし、アルゼンチンタンゴで標準とされるラインシャ・ラーゲ(Rheinische Lage)配列のバンドネオンには、そうした論理的ルールが一切存在しません。隣り合うボタン同士が全音階でも半音階でもなく、何の前触れもなく突然オクターブ飛んだり、長三度跳躍したりします。仙台で工房を構え、国内外の奏者を支える楽器技術者の渡辺公章氏が「パソコンのキーボード配列がアルファベット順ではなくランダムに散らばっているような状態」と例える通り、直感的な音階把握を徹底的に拒絶する設計になっています。
第二の理由は、「バイソノリック(押し引き異音)」という二重構造です。バンドネオンは、全く同じボタンを押していても、蛇腹を「引く(開く)」時と「押す(閉じる)」時で鳴る音が異なります。つまり、右手38個・左手33個のボタンが存在する場合、引く動作で71音、押す動作で71音、合計142箇所の音の配置を脳と指先に叩き込まなければならないのです。しかも右手は主に旋律(高音域)、左手は主に低音域を担当しますが、左右でボタンの並びの規則性すら全く異なります。
第三の壁は、「演奏中に自分の指先とボタンが一切見えない」という物理的制約です。楽器の両側面を左右から挟み込むように構えるため、演奏者は視覚情報を完全に遮断された状態で、目測を誤れば即座に不協和音を生み出す71個の小径ボタンを触覚と空間把握のみで捉え続けなければなりません。認知心理学における「空間認知と運動感覚の乖離」が常に発生する構造となっており、これが数多の音楽経験者を挫折へと追い込んできた最大の要因です。