作品のあまりの迫真性から、SNSや知恵袋などでは「多聞には実在のモデル犬がいるのではないか」「東北から熊本まで歩いた実話の映画化なのか」という言説が定期的に拡散されます。しかし、結論から言えば多聞の物語そのものは完全なフィクションです。
それにもかかわらず、なぜこれほど強固な「実話説」が定着したのでしょうか。取材と関係者資料から浮かび上がったのは、著者の凄まじい一次体験です。著者である馳星周は、大の愛犬家として知られ、軽井沢の山荘で大型犬であるバーニーズ・マウンテン・ドッグなどと長年暮らしてきました。過去のインタビューや手記において、馳は「これまで看取ってきた犬たちへの鎮魂と感謝」が本作執筆の最大の動機であったと明言しています。
さらに、東日本大震災の直後、被災地では「飼い主を探して瓦礫の中を何十キロも歩き続けた犬」や「生き別れになった家族と数年後に奇跡的な再会を果たしたペット」の実例が現地自治体やボランティア団体から多数報告されていました。馳星周はそれらの膨大な震災記録と現場の声を丁寧に取材・集積し、自身が犬と対峙してきた半生の皮膚感覚を注ぎ込みました。「創作でありながら、無数の実話の魂が宿っている」からこそ、読者は実話と見紛うほどのリアリティに圧倒されるのです。