やなせたかし氏を語る上で欠かせないのが、生涯の伴侶である小松暢さんの存在です。土佐弁で言う「はちきん(気風が良く行動力のある快活な女性)」そのものだった暢さんは、高知新聞社での同僚時代に出会い、上京後も売れない時代のやなせ氏を経済的・精神的に支え続けました。
梯久美子氏が丹念に追跡した夫婦のエピソードは、現代のジェンダー観から見ても極めて先進的です。暢さんは決して夫の三歩後ろを歩くような古典的妻ではなく、「あなたが描きたいものを描きなさい」と背中を押し、自身の仕事も全うしながら対等なパートナーとして対峙しました。絵本出版当初、教育関係者や批評家から「顔を食べさせるなんて残酷だ」「不気味だ」と猛烈な批判を浴びた際も、暢さんは作品の持つ本質的な優しさを信じ、やなせ氏の最大の味方であり続けました。
しかし、1988年にテレビアニメ『それいけ!アンパンマン』が放送開始され、空前の国民的ブームが巻き起こった直後の1993年、暢さんは癌により先立ってしまいます。最愛の妻にブレイクの完全な果実を長く味わわせることができなかった無念さは、やなせ氏の胸に生涯深く刻み込まれました。梯氏はこの喪失感こそが、90代を過ぎて病魔に冒されながらも「生涯現役」として子どもたちのために描き続けた凄絶なエネルギー源であったと分析しています。