松山千春という稀代のシンガーソングライターが世に出た背景には、1人のラジオマンとの運命的な巡り合わせがありました。1975年、全国フォーク音楽祭の北海道地区大会に出場した当時19歳の松山千春は、惜しくも落選の憂き目に遭います。しかし、そのステージ袖で彼の剥き出しの歌声に戦慄を覚えた人物がいました。審査員を務めていたSTV(札幌テレビ放送)ラジオのディレクター・竹田健二氏です。
竹田氏は大会終了後、周囲の反対を押し切って松山千春に声をかけました。「お前の歌には荒削りだが本物の心がある。俺と一緒にラジオをやらないか」。この一言が、すべての始まりでした。1976年、STVラジオの人気番組『サンデージャンボスペシャル』内に、わずか15分のコーナー「千春のひとりうた」が開設されます。毎週スタジオでギター1本を抱え、自作の楽曲を歌い語るスタイルは、またたく間に北海道中の若者たちの心を捉えていきました。
当時の千春の手記や自伝的記録『足寄より』によると、竹田氏は単なるディレクターにとどまらず、礼儀作法から人間としての生き方に至るまで厳しく指導したといいます。東京の大手レコード会社を何度も訪ね、門前払いを食らいながらも千春のデモテープを持ち込み続けました。その熱意が実を結び、キャニオン・レコード(現ポニーキャニオン)の「F-LABEL」から、1977年1月25日にシングル『旅立ち / 初恋』でメジャーデビューを果たします。
そして同年6月25日、満を持してリリースされたのがデビューアルバム『君のために作った歌』でした。しかし、栄光の幕開けからわずか2ヶ月後の1977年8月27日、残酷な悲劇が襲います。竹田健二氏が急性心不全のため、36歳という若さで急逝したのです。札幌の路上で知らせを聞いた千春は呆然自失となり、慟哭しました。「俺を一人にしてどこへ行ってしまったのか」。最愛の恩師を失った喪失感は計り知れないものでしたが、同時に「竹田さんが命を削って世に出してくれた歌を、生涯歌い続ける」という強烈な覚悟が、表現者・松山千春の骨格を決定づけました。