ここで一つの歴史的な疑問が浮かび上がります。なぜ千葉県船橋市、北海道帯広市、東京都新宿区や神楽坂など、遠く離れた地域に同じ「50番(五十番)」という屋号のラーメン店・町中華が数多く存在するのでしょうか。
食文化史および外食産業の調査資料を紐解くと、町中華における「番(ナンバー)」を冠した屋号の歴史には、昭和初期から戦後復興期にかけての3つの明確なルーツが存在します。
- 1. 旧満州(中国東北部)や横浜中華街からの引き揚げ・暖簾分けルート:戦前、大連や奉天などの都市部で営業していた中華料理店や、戦後に東京・銀座や有楽町、横浜エリアで創業した第一世代の『五十番』で修行を積んだ職人たちが、高度経済成長期に全国のベッドタウン(千葉・埼玉・北海道など)へと独立開業していった系譜。
- 2. 戦後の電話局番・区画番号に由来するネーミング:電話がまだ希少だった昭和20〜30年代、店舗の電話番号の下二桁が「50番」であったことや、区画整理番号の「50番地」をそのまま屋号に採用し、出前(岡持ち配達)の際に地域住民が覚えやすいように工夫したケース。
- 3. 中華圏における「五」と「十」の縁起思想:五行思想の中央を司る「五」と、完全・円満を意味する「十」を掛け合わせた「五十」は、商売繁盛と長寿を象徴する吉祥の数字として、料理人組合(同業組合)の中で好んで名付けられた背景。
つまり、全国各地の『50番ラーメン』は、大手資本のフランチャイズチェーンのように画一的なマニュアルで縛られているわけではありません。それぞれの創業者が師匠から受け継いだ中華鍋の振り方とスープの取り方をベースに、北海道なら味噌とラード、千葉・東京なら濃口醤油やスタミナ系ピリ辛スープといった「その土地の気候と労働者の嗜好」に合わせて独自進化を遂げた結果、現在の多様な名店群が形成されたのです。