後鳥羽上皇の島流しはなぜ起きた?承久の乱の敗因と隠岐での最期

後鳥羽上皇の島流しはなぜ起きた?承久の乱の敗因と隠岐での最期

後鳥羽上皇の島流しはなぜ起きた?承久の乱の敗因と隠岐での最期についての真相を徹底解説します。

承久の乱における両陣営の戦力格差、および戦後に幕府が下した前代未聞の処分内容は、以下のデータ比較表が示す通りです。

比較項目鎌倉幕府軍(北条方)朝廷軍(後鳥羽上皇方)歴史的影響・評価推定動員兵力約19万騎(吾妻鏡による記録)約1万〜2万騎程度圧倒的な動員力格差が短期決戦を決定づけた指揮系統・動機北条義時・泰時(土地と既得権益の死守)後鳥羽上皇・藤原秀康(大義名分と勅命の威光)抽象的な権威よりも実利で結ばれた武士団が勝利主導者の戦後処遇六波羅探題を設置し全国支配権を掌握隠岐島(現・島根県海士町)へ遠流現職上皇の流刑という武家優位の決定づけ皇族・皇位の処遇後堀河天皇を擁立し主導権を確保仲恭天皇廃位、順徳上皇は佐渡、土御門上皇は土佐へ配流皇位継承に武家が直接介入する前例が確立経済的没収・再配分西国の没収領地3,000箇所超に地頭を新補朝廷派貴族・武士の荘園・所領をほぼ喪失東国武士が西国へ進出し、全国規模の武家政権へ発展

上表が示す通り、後鳥羽上皇の血統に対する処分は苛烈を極めました。上皇本人だけでなく、挙兵に賛同した順徳上皇は佐渡島へ配流。直接関与していなかった土御門上皇も自ら望んで土佐(後に阿波)へ配流となりました。3人の上皇が同時に島流しとされる事態は、中世日本の秩序が根底から覆った事実を物語っています。

中島 亮太
著者

中島 亮太

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