信長の妹の中で最も著名なお市の方が北近江の領主・浅井長政へ嫁いだのは、永禄10年(1567年)から永禄11年(1568年)頃のことです。この結婚には、極めて明確な軍事・政治的意図が存在していました。
当時、美濃を攻略した信長にとって、最大の目標は足利義昭を奉じての「上洛」でした。しかし、岐阜から京都へ抜けるには近江(滋賀県)を通過しなければなりません。南近江の六角氏を抑えつつ、北近江の浅井氏と同盟を結ぶことは、安全な進軍ルートを確保するために不可欠でした。
さらに浅井家は、越前の朝倉義景とも深い誼を通じていました。信長としては、長政を自陣営に引き入れることで朝倉氏を牽制し、背後を固める狙いがありました。この婚姻にあたり、信長は長政に対して異例の優遇措置を講じ、婚礼費用を全額負担しただけでなく、「朝倉氏へは攻め込まない」という誓約を交わしたとされています。
しかし、元亀元年(1570年)、信長が徳川家康と共に越前の朝倉領へ侵攻したことで同盟は決定的に破綻します。長政は織田と朝倉の板挟みの末、長年の同盟関係であった朝倉氏を選択。金ヶ崎の戦いで信長の背後を急襲し、戦国屈指の激戦へと突入していきました。