「人体の不思議展」がどのような変遷を辿ったのかを正確に理解するには、展示の歴史を「前期」と「後期」に分けて捉える必要があります。当初の展示と、後に激しい批判を浴びた興行とでは、主催母体も標本の調達ルートも全く異なっていました。
発端となったのは、ドイツの解剖学者グンター・フォン・ハーゲンス博士が1977年に開発した技術「プラスティネーション」です。これは遺体から水分と脂質を抜き取り、真空状態でアセトン置換を経てシリコンやエポキシ樹脂などの合成樹脂を染み込ませる保存技術でした。腐敗せず、無臭で、生前の組織構造を半永久的に保つこの画期的な標本は、当初は医学生の解剖学教育のために生み出されたものです。
日本で最初にこの技術が紹介されたのは、1996年から1998年にかけて開催された「新・人体の不思議展」でした。この時は日本解剖学会の創立100周年記念事業として位置づけられ、国立科学博物館をはじめとする格式高い公立施設で開催。医学界の正式なバックアップのもと、約290万人を動員する成功を収めました。
風向きが激変したのは、この大ヒットに目をつけた日本の興行プロモーターとハーゲンス博士が決裂した2000年代初頭です。商業的な見世物化を急速に推し進めようとする興行側と、自身のコントロール下で学術性を保とうとするハーゲンス博士が対立。主催者側はハーゲンス博士を排除し、独自の標本調達ルートを中国・大連に求めました。
中国の医科大学や現地の研究所と提携し、大量の中国人遺体をプラスティネーション化して輸入する体制を構築したことで、2002年以降の「人体の不思議展」は完全に利益追求型の商業興行へと変貌を遂げていきました。学術組織の後援が失われたにもかかわらず、大手テレビ局や地方新聞社が次々と主催・後援に名を連ね、ショッピングモールや民間のイベントホールで大規模な巡回が始まったのです。