国産第1号の完成後、鉄砲の製造技術は瞬く間に日本全国へと拡散しました。なぜこれほど短期間で普及したのか、その背景には日本の地理的・社会的な好条件が重なっていました。
第1の理由は、堺(大阪府)や国友(滋賀県)、根来(和歌山県)といった高度な金属加工技術を持つ職人都市へ技術が速やかに移転されたことです。特に堺は日本有数の国際貿易港であり、自治都市としての経済力と高度な鋳物・鍛冶技術を併せ持っていました。近江国の国友も足利将軍家の命を受けて大量生産に乗り出し、一大コンビナートを形成しました。
第2の理由は、戦国大名たちの切実な需要と資本投下です。群雄割拠の乱世において、鉄砲の保有数は大名の生死に直結する戦略物資でした。織田信長をはじめ、武田信玄、上杉謙信、北条氏康、毛利元就といった名だたる武将たちが莫大な資金を投じて鉄砲の買い付けと専属鍛冶の育成に狂奔しました。
第3のハードルであった「火薬の原料調達」も見逃せません。木炭や硫黄は国内で豊富に自給できたものの、主原料である「硝石(しょうせき)」は日本で産出されませんでした。大名たちは南蛮貿易を通じて東南アジアから大量の硝石を輸入する一方、床下の古土から硝石を抽出する「培養法(古土法)」を独自に編み出し、原料不足を補う技術革新まで成し遂げました。
その結果、伝来からわずか30〜40年後の16世紀後半には、日本国内に数十万挺の鉄砲が存在していたと推計されており、当時のヨーロッパ全土の銃保有数を上回る「世界最大の銃器大国」へと変貌を遂げたのです。