富本銭をめぐり長年続いてきた最大の論争、それは「実際に買い物などの経済活動で使われたのか」という流通の実態である。近年進展した高精度金属顕微鏡による非破壊検査と考古学知見の集積は、この問いに対して極めて明快な回答を突きつけた。出土した銭貨のエッジ部分に、長期にわたる摩擦や手擦れによる特有の摩耗が確認されたのだ。これは長期間、人々の手から手へと渡り歩いた何よりの物証である。
『日本書紀』の天武天皇12年(683年)4月15日の条には、「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」という極めて有名な詔が記されている。この記述にある「銀銭」が無文銀銭を指し、「銅銭」こそが富本銭を指していたことは今日ほぼ確実視されている。当時の日本には、貴金属としての価値に依存する無文銀銭がすでに一部で流通していた。天武天皇はそこに国家が価値を保証する名目貨幣(銅銭)を割り込ませ、富本銭を流通させようと試みたのである。
富本銭の鋳造目的は、単なる交易の利便性向上にとどまらない。新都・藤原京の造営に携わる官人や工人たちへ支払う賃金として機能させ、国家主導の巨大プロジェクトを円滑に推進するための経済的推進剤として設計されていたのだ。国家が価値を規定し、支払いに用いることで市場に強制的に流通させる――この貨幣政策の試みこそが、飛鳥時代における最大の技術的かつ政治的革新であった。