なぜ江戸城は消えたのか?天守閣が再建されなかった歴史の真相と皇居の今

なぜ江戸城は消えたのか?天守閣が再建されなかった歴史の真相と皇居の今

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日本一の威容を誇った江戸城天守ですが、その命脈は完成からわずか19年で絶たれることになります。1657(明暦3)年1月、本郷の本妙寺から出火したとされる「明暦の大火(別名・振袖火事)」が発生。折からの猛烈な北西の強風にあおられた炎は江戸市街の6割以上を焼き払い、死者は10万人を超えたと伝えられます。

火の手は江戸城本丸にも達し、無数の火の粉が天守閣を直撃。最高峰の巨城は紅蓮の炎に包まれ、わずか数時間で石垣を残して灰燼に帰しました。これが明暦の大火による焼失です。

直後、幕府内では当然のように天守再建が議論され、加賀藩主・前田利常らによって天守台の石垣修復まで完了していました。しかし、その動きを毅然と押し止めた人物がいます。4代将軍家綱の叔父であり、幕政の最高責任者として補佐していた会津藩主・保科正之です。

保科正之は幕閣に対し、次のように説いて再建計画を白紙に戻しました。

「天守閣は戦国時代の遺物であり、城を守る実用性はなく単なる遠くを眺める飾りに過ぎない。今最も急ぐべきは、焼け野原となった江戸の市街地を復興し、生活を失った民衆を救済することである」

この保科正之の再建中止決断によって、天守再建に投じられるはずだった巨額の資金と資材は、両国橋の架橋をはじめとする都市インフラの整備、延焼を防ぐ火除地(ひよけち)の設置、被災者への給付金へと振り向けられました。「軍事の象徴」から「民政の安定」へと幕府の統治方針が明確に転換した瞬間であり、これが今日に至るまで江戸城天守閣が再建されない理由の根幹となっています。

中川 明日香
著者

中川 明日香

エンタメ・カルチャー業界の深掘り取材を得意とし、現場のリアルな声をお伝えします。