マリー・アントワネット処刑の真相|悪女説の嘘と断頭台の最期

マリー・アントワネット処刑の真相|悪女説の嘘と断頭台の最期

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1792年8月10日、テュイルリー宮殿が襲撃され王権が完全に停止。一家は中世の要塞であるタンプル塔に幽閉されました。翌1793年1月21日、夫ルイ16世が革命広場でギロチンにより処刑されると、マリー・アントワネットの運命は暗転を極めます。

最も残酷だったのは、最愛の息子ルイ・シャルル(ルイ17世)との引き離しでした。革命政府は8歳の幼子を王妃から力づくで奪い取り、過激派の靴職人アントワーヌ・シモンの元で「革命の申し子」として洗脳教育を施しました。劣悪な環境で酒を飲まされ、暴力を受けた幼い皇子は、母から性的虐待を受けたと語る偽証調書に署名を強制されたのです。

「死の待合室」コンシェルジュリー牢獄での生活

1793年8月、マリー・アントワネットはセーヌ川沿いに佇む「死の待合室」ことコンシェルジュリー牢獄の地下独房へ単身移送されました。石造りの湿気た小部屋にはわずかな陽光も届かず、健康状態は急激に悪化。重度の不正出血(子宮頸がんあるいは子宮筋腫の進行と推測される)に苦しみながらも、王妃は24時間体制で2人の憲兵による監視下に置かれました。

かつてモードの頂点に君臨した彼女に残されたのは、擦り切れた黒い喪服とわずかな下着、そして手袋だけでした。極度のストレスと病魔により、かつての豊かなブロンド髪は白髪へと変わり果てていたと当時の記録官は記しています。

子供たちのその後|引き裂かれた家族の過酷な結末

マリー・アントワネットが命懸けで愛した子供たちのその後も、過酷を極めました。

  • 長男 ルイ・ジョゼフ:革命勃発直前の1789年6月、くる病(脊椎結核)のため7歳で病死。彼の死が国王夫妻の心を激しく打ち砕き、革命初期の判断を鈍らせる一因となった。
  • 次男 ルイ・シャルル(ルイ17世):タンプル塔の不衛生な独房に放置され、結核と極度のネグレクトにより1795年にわずか10歳で病死。遺体は共同墓地に葬られたが、解剖医ペルタンが密かに保存した心臓が2004年にDNA鑑定され、サン=ドニ大聖堂に正式安置された。
  • 長女 マリー・テレーズ:幽閉生活を唯一生き延び、1795年にオーストリアの捕虜との交換で釈放された。後に従兄のアングレーム公と結婚し「マダム・ロワイヤル」として波乱の生涯を送り、1851年に72歳で亡くなるまで母の誇りを守り続けた。
橋本 菜々子
著者

橋本 菜々子

グルメと旅を愛するフリーライター。全国各地の隠れた魅力を独自の視点から紹介します。