森見登美彦の書籍を初めて開く際、読者が最も気になるのは「一体どれが最高傑作なのか」という点です。書評家や熱心な読書コミュニティの間でも議論が分かれる問いですが、文体の快楽、ユーモア、疾走感のバランスにおいて頂点を極めているのが『夜は短し歩けよ乙女』であることに異論の余地はありません。
本作は、第20回山本周五郎賞を受賞し、本屋大賞2位にも輝いた金字塔です。クラブの後輩である「黒髪の乙女」に想いを寄せる「先輩」が、彼女の目に留まらんとして展開する不毛かつ愛おしい外堀埋め工作――「ナカメ作戦(なるべく彼女の目に留まる作戦)」の顛末が、四季の移ろいとともに描かれます。先斗町の酒場を巡る千鳥足の夜、下鴨神社の古本市、学園祭の神出鬼没なゲリラ演劇など、現実の京都を舞台にしながらも一夜が一年にも匹敵するような濃密なファンタジー世界が展開されます。
もう一つの最高峰として必ず名が挙がるのが、デビュー第2作にして作家の原点ともいえる『四畳半神話大系』です。大学三回生の男子学生が、もし別のサークルを選んでいれば薔薇色のキャンパスライフが送れたのではないかという「可能性の並行世界」を彷徨う連作短編集。悪友・小津との腐れ縁や、孤高の歯科衛生士・明石さんへの淡い恋慕が、幾何学的ともいえる緻密な伏線回収によって収束していく構成美は圧巻です。
独特な京都のファンタジー世界が読者を惹きつけてやまない背景には、「日常のすぐ隣に潜む異界」を可視化する卓越したトポス(場所)の魔力が存在します。鴨川の河原、木屋町の路地裏、吉田神社の薄暗がりといった実在の景観に、天狗や狸、偏屈な学者たちが自然体で息づく虚実皮膜の筆致こそが、読者に現実逃避ではない「現実の再発見」をもたらす源泉となっています。