ブイン現地で検視を終えた遺体は、速やかに現地基地の一角で荼毘に付された。熱帯の気候下では急速に腐敗が進むため、内地へ遺体をそのまま搬送することは不可能だった。白木箱に収められた遺骨は、トラック諸島に停泊していた連合艦隊旗艦の戦艦「武蔵」へと運ばれ、長官室に安置された後、東京へと無言の帰還を果たした。
現場で撮影された山本五十六の遺体写真および墜落機の写真は、即座に海軍省の最高機密に指定された。銃弾によって右半分が損壊した顔貌や、ジャングルの泥にまみれた痛々しい遺体の様子が国民の目に触れれば、無敵を信じ込まされていた国民に計り知れない厭戦気分と衝撃を与えることは明白だったからである。写真は徹底的に検閲・封印され、関係者に対しても固いかん口令が敷かれた。
事件から1か月以上が経過した1943年5月21日、大本営は山本長官の戦死を初めて発表。同年6月5日には、日比谷公園において皇族以外の軍人としては初となる山本五十六の国葬が盛大に執り行われた。遺骨が納められた棺が厳粛な音楽とともに行進する映像は日本ニュース映画で全国に上映され、「元帥の仇を討て」「一億玉砕」というスローガンとともに、国民をさらなる泥沼の総力戦へと駆り立てる装置として機能した。