ザ・ドリフターズの歴史において最大の転換点となったのが、1974年の荒井注さんの脱退と、若き付き人だった志村けんさんの正式加入劇です。
当時、毎週生放送で行われていた『8時だョ!全員集合』は、緻密な舞台設営と肉体を極限まで使う過激なスラップスティック・コントの連続でした。木曜のネタ会議、金曜の立ち稽古、土曜のリハーサルから本番という過酷なスケジュールに対し、当時40代半ばに差し掛かっていた荒井さんは著しい体力消耗を感じていました。自著や後年の特番インタビューにおいて、荒井さんは「体力の限界だった。何が面白くて身体を張っているのか分からなくなった」と率直に告白しています。また、いかりやさんの徹底した管理演出体制に対し、自由な気質を持つ荒井さんが強い精神的疲労を抱えていたことも公然の事実でした。
この脱退劇に伴い、当初は付き人歴が長かったすわ親治さん(当時・すわしんじ)の昇格も検討されましたが、最終的に白羽の矢が立ったのが当時24歳の志村けんさんでした。いかりやさんは志村さんの貪欲な笑いへの探究心とリズム感を高く買っていたとされます。
しかし、加入直後の志村さんは順風満帆ではありませんでした。荒井注さんの「なんだ馬鹿野郎」「This is a pen!」といった強烈なワンフレーズ芸に慣れ親しんでいた視聴者にとって、新参者の志村さんは当初受け入れられず、半年以上も劇場の客席が静まり返る苦境が続きました。転機となったのは、1976年に披露された「東村山音頭」でした。郷土色を前面に押し出したナンセンスなギャグと軽快なリズムが子どもたちの心を一気に掴み、志村さんは瞬く間にグループのトップスターへと駆け上がったのです。