多くの観光客が「知床のヒグマはおとなしい」「人間に慣れていてペットのようだ」と錯覚しがちですが、野生動物管理の専門家はこの見方に強い警鐘を鳴らしています。知床のヒグマが人を恐れないように見える最大の要因は、ヒグマ人慣れ問題の真相と半島の歴史的背景にあります。
知床半島先端部のルシャ湾ヒグマをはじめとする個体群は、古くから定置網漁を営む漁業関係者(番屋の漁師)と同じ空間を共有してきました。漁師たちはヒグマに餌を与えず、過度な威嚇もせず、「お互いに干渉しない」という暗黙の境界線を数十年かけて構築してきました。ヒグマ側も「人間は危害を加えないが無価値な存在」と学習した結果、人間が近くにいても逃げない「非反応な状態」が生まれたのです。
しかし、近年の観光客急増に伴い、この絶妙なバランスが崩れ始めています。車内から窓を開けて手を振る観光客や、数メートルの至近距離までカメラを構えて詰め寄る写真愛好家の存在によって、ヒグマが人間への警戒心を完全に喪失する「過剰な人慣れ(ディープ・ハビチュエーション)」が発生しています。人間を恐れないヒグマは、一歩間違えれば「人間が持っている食べ物」や「人間の居住エリア」に執着を示すようになり、極めて危険な事故を引き起こすトリガーとなります。