猗窩座が鬼として数百年にわたり鍛錬を重ね、強さのみを至高の価値とした根本的な理由は、上弦の参の人間時代である「狛治」の凄惨な記憶にあります。公式ファンブック『鬼殺隊見聞録』および原作第154話〜157話で明かされた彼の人生は、理不尽な喪失の連続でした。
江戸時代、貧民街に生まれた狛治は、重病を患う父親に薬を買うため、幼少期からスリと盗みを繰り返していました。捕まるたびに町奉行所で苛烈な百叩きの刑を受け、両腕には罪人の証である「入墨」が刻まれます。しかし、父は息子が自分のために罪を重ねることに耐えかね、「真っ当に生きろ」という遺書を残して首を吊り自死を遂げました。守るべき対象を自らのせいで失った狛治の心には、底知れぬ無力感と怒りが刻み込まれます。
荒みきった狛治を救ったのが、徒手空拳の武術「素流(そりゅう)」を教える道場主・慶蔵(けいぞう)とその一人娘・恋雪でした。生まれつき体が弱く、看病を必要としていた恋雪の世話を任された狛治は、父の看病で培った献身によって彼女の心を救い、自身もまた二人の温かな愛情に包まれて人間性を取り戻していきます。18歳になった狛治は慶蔵から道場を継ぐことを託され、恋雪から求婚を受け入れられた際、盛大な花火の下で「命に代えても一生守る」と誓いを立てました。
しかし、幸福の絶頂は突如として打ち砕かれます。隣接する剣術道場の跡取り息子が、素流道場の土地への執着と恋雪への横恋慕から、道場の井戸に毒を混入。狛治が父の墓前に祝言の報告へ赴いていたわずかな留守の間に、慶蔵と恋雪は毒殺されてしまったのです。
この理不尽極まる惨劇により、狛治の精神は完全に崩壊しました。彼は単身で剣術道場へ乗り込み、素手で門下生ら67名を撲殺。その常軌を逸した修羅場を聞きつけて現れた鬼の始祖・鬼舞辻無惨によって頭部を貫かれ、強制的に鬼へと変貌させられました。鬼化に伴い人間時代の記憶は完全に消去されましたが、「守れなかった無念」と「弱さへの憎悪」という強烈な感情の澱(おり)だけが残り、強迫観念的に「強さ」を追い求める怪物・猗窩座が誕生したのです。