沖田畷の戦いにおける最大の焦点は、公認記録でも数倍におよぶ絶望的な兵力差を島津軍がどう覆したかという点にあります。島津家久が選んだ戦場「沖田畷」は、片側に有明海、もう片側に深い泥沼と葦が生い茂る低湿地帯が広がり、中央を細い一本道(畷=あぜ道)が通る極めて狭隘な地形でした。
家久はこの地形を最大限に活かし、島津家伝統の高等戦術「釣り野伏せ(つりのぶせ)」を完璧な形で仕掛けました。
まず、中央の前衛部隊が意図的に龍造寺軍と交戦し、劣勢を装って敗走します(釣り役)。大軍を誇る龍造寺軍は敵を壊滅させようと細いあぜ道に殺到しましたが、泥沼に足をとられて隊列は縦に伸びきり、左右への展開が一切できない密集状態に陥りました。
部隊が完全に狭路へ引き込まれた瞬間、左右の葦原や林に潜んでいた島津の伏兵が一斉に蜂起。さらに有馬軍の小型南蛮船(あるいは武装船)が海岸沿いから艦砲射撃を浴びせ、龍造寺軍の先鋒から本隊にかけて壊滅的なパニックを引き起こしました。至近距離からの島津軍による濃密な鉄砲一斉射撃があぜ道上の大軍をなぎ倒し、前後の連絡を絶たれた龍造寺軍は自軍の兵士同士が押し合って泥沼に沈む大惨状となったのです。