日中関係のパイオニア・松村謙三とは一体何者なのか。その問いに対する最大の答えが、1960年代初頭の極限状態の中で成立させた「LT貿易」です。
1958年の長崎国旗事件を契機に、日中間の交流は完全に途絶し、関係は極限まで冷却化していました。当時、アメリカとの強固な同盟を最優先する岸信介内閣に対し、松村は「隣国である中国と対話を閉ざすことは、極東の緊張を無意味に煽り日本の将来を危うくする」と公然と批判の声を上げました。そして自民党総裁選で岸に対立候補として挑んだ後、1959年秋、周囲の激しい引き止めを振り切って北京への訪問を決行します。
この北京訪問で松村を迎えたのが、中国の周恩来首相でした。二人はイデオロギーの隔たりを完全に超え、東洋的教養と高潔な人格を通じて共鳴し合います。松村は生前の手記や回顧録において、周恩来との会談を次のように述懐しています。
「政治体制は違えども、互いに民を思う心に偽りがなければ必ず通じ合える道がある。東洋の古い智慧を重んじる周首相の眼光には、小手先の駆け引きを寄せ付けない気迫があった」
松村の捨て身の対話が実を結び、1962年11月、高碕達之助と廖承志の間で日中総合貿易に関する覚書(LT協定)が調印されます。廖承志の頭文字「L」と高碕の「T」を冠したこの枠組みは、形式上は民間取引でありながら、双方の政府公認のもと連絡事務所の設置や記者交換を実現させた画期的な準政府間協定でした。自民党内の親台湾派・タカ派からの激しい罵倒や政治的脅迫に晒されながらも、松村が政治生命を賭してバックボーンとなり続けたからこそ、この細い生命線は守り抜かれたのです。
周恩来は松村を終生深く敬愛し、後に「水を飲むとき、井戸を掘った人を忘れてはならない(飲水思源)」という言葉で松村の献身を讃えました。1972年の日中国交正常化は、松村が病没した翌年の秋に成し遂げられましたが、その礎石を築いたのは紛れもなく松村謙三その人でした。