この鋭敏な人間観察を記した山のあなたの空遠く作者は、19世紀末から20世紀初頭のドイツで活動した詩人・小説家のカール・ブッセ(Carl Hermann Busse, 1872–1918)です。
カールブッセ経歴と代表作を紐解くと、彼は旧プロイセン王国のリンデンシュタット(現在のポーランド領リプカ)に生まれました。ベルリン大学などで文学と歴史を専攻し、20歳で処女詩集『詩集(Gedichte)』(1892年)を刊行して文壇に登場します。文芸評論家としても筆を振るい、当時のドイツ自然主義文学運動の只中で叙情的な小品を数多く残しました。代表作には小説『聖なる苦難(Heilige Not)』などがありますが、第一次世界大戦末期の1918年、46歳の若さでベルリンにて病没しています。
実は文学史上の客観的事実として、本国ドイツにおいてカールブッセ山のあなた(原題:『Über den Bergen』)は、国民的代表作として大々的に扱われていたわけではありません。当時のドイツ叙情詩の潮流において、穏やかで平易な小詩のひとつという位置づけでした。それを日本において不滅の古典へと押し上げた立役者が、碩学・上田敏です。
1905年(明治38年)、日露戦争の講和条約が結ばれた激動の年に、本郷書院から上梓された上田敏海潮音。この翻訳詩集は、ボードレール、ヴェルレーヌ、マラルメといったフランス象徴派を中心に、西欧近代の洗練された詩魂を驚異的な日本語へと移植した記念碑的著作でした。上田敏はブッセの簡潔なドイツ語から、日本古来の五七調・七五調の韻律(「や・ま・の・あ・な・た・の/そ・ら・と・ほ・く」の調べ)を抽出し、原詩以上の陰影と余情を吹き込みました。山のあなたの空遠く解釈と背景を語る上で、明治の知識人が西洋近代と対峙した際のエリートの感性と、庶民に親しまれた伝統的リズムの融合を見逃すことはできません。