やなせたかし氏は1919年、高知県出身(出生地は東京)。千葉大学工学部の前身である東京高等工芸学校工芸図案科でデザインを学びました。戦前の製薬会社宣伝部を経て出征し、凄惨な戦争体験を経て復員した後の1947年、三越宣伝部へ入社しました。
三越時代のやなせ氏は、単なる一社員にとどまらず、多才なクリエイターとして頭角を現していました。三越劇場のポスター制作、店内催事のディスプレイ、宣伝誌のレイアウトなどを幅広く手掛け、同僚や先輩・後輩と刺激し合いながら商業デザインの最前線で腕を磨いていました。
しかし、安定した百貨店勤務の傍らで「自らの手で純粋な物語や絵を生み出したい」という表現への渇望は抑えがたく、1953年に三越を退社して独立の道を選びます。退社後の人生は決して平坦ではありませんでした。舞台美術、作詞家(名曲『手のひらを太陽に』など)、ラジオドラマの脚本、漫画家と、何でも引き受ける「器用貧乏」として30代から50代まで長い下積み時代を過ごすことになります。
転機が訪れたのは、50代に入ってから描き始めた『アンパンマン』でした。「お腹を空かせた者に、自らの顔をちぎって差し出す」という前代未聞のヒーロー像は、当初、教育関係者や批評家から「グロテスクだ」「顔を食べるなど残酷だ」と激しいバッシングを受けました。それでも幼児たちの熱烈な支持を集め、69歳の時にテレビアニメ化されて社会現象となります。
晩年の手記やインタビューにおいて、やなせ氏は「人を喜ばせることこそが人生の最大の喜びであり、表現の根本である」と繰り返し語っています。三越宣伝部という、買い物客の笑顔と直結した商業現場で培った「サービス精神」と「洗練された視覚伝達力」は、間違いなくアンパンマンの造形や明快な色彩構成へと昇華されていました。