北条高時は本当に暗君だったのか?鎌倉幕府滅亡の真相と最期

北条高時は本当に暗君だったのか?鎌倉幕府滅亡の真相と最期

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週刊少年ジャンプ連載の歴史漫画『逃げ上手の若君』(松井優征作)のヒットにより、北条高時の存在は若い世代にも広く知られることとなりました。作中では、飄々としつつも得宗としての重圧を背負い、我が子に未来を託して散っていく父親としての姿が描かれ、多くの読者の共感を呼んでいます。

史実においても、高時の遺児である次男・北条時行は、幕府滅亡の混乱を脱出して信濃国(長野県)の諏訪大社・諏訪頼重のもとへ潜伏。建武2年(1335年)、わずか10代前半で北条軍の残党を結集して挙兵し、一時的に足利尊氏の弟・直義を破って鎌倉を奪還する「中先代の乱」を引き起こしました。

その後も時行は、かつて父を死に追いやった後醍醐天皇(南朝方)と手を結び、足利尊氏に対抗して激しいゲリラ戦を展開。正平8年/文和2年(1353年)に処刑されるまで、北条得宗家の誇りと鎌倉奪還の執念を燃やし続けました。

高時の血脈は滅亡時に途絶えたと思われがちですが、時行の子孫を称する家系や、北条一族の庶流が地方豪族化して命脈を保った伝承が各地に残されています。例えば、肥後国(熊本県)の横井氏は北条時行の末裔を称し、幕末の思想家・横井小楠はその末裔として知られています。また、現在も鎌倉の宝戒寺(高時らの霊を慰めるために足利尊氏が建立)や東勝寺跡腹切りやぐらには、命日になると多くの歴史ファンや子孫縁者が訪れ、手向けの花が絶えることはありません。

渡辺 美咲
著者

渡辺 美咲

心身ともに健康で持続可能なライフスタイルをテーマに、最新のウェルネストレンドを発信中。