官兵衛が土牢から救出される直前の天正7年(1579年)6月、半兵衛は播磨の三木合戦(三木の干殺し)の陣中において息を引き取りました。享年36の若さでした。
半兵衛の死因は、当時「労咳(ろうがい)」と呼ばれていた肺結核などの重い呼吸器系疾患とされています。秀吉は京都で療養するよう強く勧めましたが、半兵衛は「武士が病床で畳の上で死ぬのは本懐ではない。陣中で死にたい」と懇願し、戦場へ戻って軍務に殉じました。
自らの死期を悟った半兵衛は、陣中を訪れた官兵衛(幽閉前)に対し、軍師としての心得を説き、秀吉の天下取りを託したとされています。松寿丸が無事であることを知らぬまま逝去した半兵衛に対し、後から事実を知った官兵衛の感謝と慟哭は計り知れないものでした。黒田家はその後、竹中家の家紋である「黒餅(こくもち)」を譲り受け、自らの家紋(裏宿り)として代々使い続けることで、半兵衛への終生変わらぬ恩義を示しました。