ラフマニノフが交響曲第2番を完成させた背景には、クラシック音楽史上でも屈指と呼ばれる壮絶な挫折と復活の経緯が存在します。
1897年、弱冠24歳だったラフマニノフは満を持して交響曲第1番ニ短調を初演しました。しかし、初演の指揮を担当したアレクサンドル・グラズノフの準備不足や泥酔疑惑、さらに当時のロシア楽壇における保守派の重鎮ツェーザリ・キュイによる「もし地獄に音楽学校があれば、この交響曲は第1賞を受賞するだろう」という残酷な劇評により、初演は大惨敗に終わります。
自尊心を粉々に打ち砕かれたラフマニノフは重度のうつ病と創作不能状態に陥り、自著や書簡にも「自分は作曲家としての才能を完全に失った」という痛切な絶望を吐露していました。この暗黒期から彼を救い出したのが、精神科医ニコライ・ダーリ博士による暗示療法(催眠療法)でした。「あなたは素晴らしい協奏曲を書く、その仕事は極めて順調に進む」という反復暗示によって精神的トラウマを克服したラフマニノフは、1901年に不滅の傑作『ピアノ協奏曲第2番』を発表し、劇的な復活を遂げます。
それでもなお「交響曲」というジャンルに対しては強い恐怖心とトラウマを抱き続けていました。モスクワでの指揮者・ピアニストとしての多忙な生活から逃れ、1906年秋にドイツのドレスデンへと居を移した彼は、世間の喧騒を断ち切った静謐な環境の中で、約10年の時を経て再び交響曲の筆を執ります。1908年1月、サンクトペテルブルクで自らの指揮により初演された交響曲第2番は大絶賛を博し、栄誉あるグリンカ賞を受賞。青年期の悪夢を完全に払拭し、作曲家としての完全復活を世界に知らしめたのです。