フィンガーボールを語るうえで外せないのが、世界中に伝わる有名な王室の逸話です。「作法を知らない客人がフィンガーボールの水を飲んでしまった際、主催者である君主も咄嗟に同じように水を飲み干し、客人に恥をかかせなかった」という物語を聞いたことがある人は多いでしょう。
一般的にこの話は「エリザベス女王のエピソード」や「ヴィクトリア女王の機転」として広く流通しています。しかし、服飾史や外交記録を丹念に調査すると、この逸話には多様なバリエーションが存在することが分かります。イギリスではエドワード7世の逸話としても記録されており、さらには日本においても同様の記録が残されています。
客観的な史料として著名なのが、旧日本陸軍の重鎮であった荒木貞夫にまつわる記録です。陸相時代に主催した公式晩餐会において、招かれた地方出身の来賓がフィンガーボールをチェイサーと誤認して飲み干してしまいました。その瞬間、会場が凍りついたのを見た荒木は、迷うことなく自身のフィンガーボールを両手で持ち上げ、喉を鳴らして飲み干しました。主宰者として「客に恥をかかせまい」とする武士道精神に基づいたこの咄嗟の配慮は、後に実名を伏せた道徳絵本や教育的な美談としても語り継がれています。
このフィンガーボールの真相を紐解くと、特定の歴史的事実が単独で存在するというよりも、「マナーとは形式を強要して人を裁くための凶器ではなく、他者への深い敬意と思いやりである」という社交界の至高の理想が、時代や国境を越えて偉人たちの名に託されてきたものと解釈するのが極めて自然です。