ミステリー作品の定番描写として「遺体の口元からアーモンド臭が漂う」というものがある。これもまた、現実と創作の間に大きな認識のギャップが存在する要素の一つだ。
一般に親しまれているアーモンドチョコレートや洋菓子のような香ばしく甘い香りは、加熱焙煎(ロースト)や香料によって人工的に付与されたものだ。シアン化合物が放つ「アーモンド臭」とは、野生の未熟な杏の種子やビターアーモンドに含まれる配糖体(アミグダリン)に由来するものであり、鼻を突くツンとした青臭い刺激臭を指す。
さらに重要な医学的事実として、シアン化合物の特有臭を感じ取れるかどうかには遺伝的な個人差が存在する。法医学や毒物学の統計によれば、人類の約20%から40%は遺伝的にシアンの臭いを一切感知できない。
つまり、現場に駆けつけた捜査員や医師であっても、遺伝子型によっては無臭にしか感じられない。現代の鑑識現場において、捜査官が臭気だけを頼りに青酸毒を断定することは決してなく、専用の検知管や化学試薬を用いた客観的なスクリーニングが必須となる。