那覇市首里金城町に現存する約238メートルの石畳道は、単なる風情ある古道ではありません。そのルーツは1522年、琉球王国第3代国王・尚真王の治世にまで遡ります。当時、倭寇の襲来や外国船の脅威に備えるため、首里城から那覇港および南部方面(豊見城・読谷方面)を結ぶ軍事用幹線道路として整備されたのが、総延長約4キロメートルに及ぶ「真珠道(まだまみち)」でした。
太平洋戦争末期の沖縄戦において、日本軍の第32軍総司令部地下壕が置かれた首里城一帯は、米軍による「鉄の暴風」と呼ばれる猛烈な艦砲射撃と航空爆撃を受け、地表の建造物や文化財の9割以上が灰燼に帰しました。真珠道もその大部分が粉砕され、戦後の無秩序な都市復興と道路拡幅によって永遠に失われていきました。その中で、奇跡的に原形を留めたのがこの金城町の一区画です。
なぜこの区画だけが生き残ったのか。現地調査と戦時記録から導き出される理由は主に3つ存在します。第1に、首里台地の南側斜面に位置する急峻な「すり鉢状の谷間」という地形です。尾根沿いの要衝や軍事施設から死角となり、直撃弾の密度が相対的に低かったことが挙げられます。第2に、車両の通行が不可能なほどの急勾配であったため、戦後の米軍による重機を使った直線的な道路拡幅・アスファルト舗装の対象から外れたというインフラ整備上の逆説です。そして第3に、後述する御嶽(うたき)を中心とする地域共同体の強固な信仰心が、無差別な破壊からこの土地を守り抜く心理的防波堤となった事実が見逃せません。