「遊びをせんとや生まれけむ」真の意味とは?平安の狂気と現代の共鳴

「遊びをせんとや生まれけむ」真の意味とは?平安の狂気と現代の共鳴

「遊びをせんとや生まれけむ」真の意味とは?平安の狂気と現代の共鳴について専門的な視点から解説いたします。専門家の見解をお届けします。

この歌の存在を語る上で避けて通れないのが、編纂者である後白河法皇の常軌を逸した情熱です。一般にこの歌の具体的な作者は特定されておらず、当時「辻の童」や諸国を巡る遊女、傀儡子(くぐつ)といった庶民階層によって口承されていた流行歌(今様)の一つとされています。それを宮廷の最高権力者が自ら筆を執り、後世に残した事実こそが歴史の特異点でした。

後白河法皇が遺した回想録『梁塵秘抄口伝集』には、後世の歴史家をも戦慄させる生々しい告白が記されています。

「十歳余りの頃よりこの芸能を好み、五十有余年に至るまで、日夜歌い続け、明かし暮らさぬ時はなかった。喉が腫れ上がり、湯水を飲み込むことすら耐え難くなっても、歌うことを止めなかった。声を潰しては回復させ、ついには三度も声の質を変えるに至った」

自著の手記で語られたこの述懐は、趣味や道楽の域を完全に逸脱しています。側近の貴族たちが「主上は狂気じみている」と眉をひそめ、当代随一の知識人・藤原通憲(信西)が呆れ果てるなかでも、後白河法皇は身分の低い白拍子や遊女を御所に呼び寄せ、夜を徹して歌の指導を乞いました。師匠格であった老遊女の乙前(おとまえ)が没した際には、一国の治天の君でありながら人目をはばからず号泣し、手厚く供養したエピソードは有名です。

当時の平安京は、保元の乱(1156年)や平治の乱(1159年)によって肉親同士が血で血を洗う殺戮を繰り広げ、貴族社会が終焉を告げようとしていた未曾有の乱世でした。疫病が蔓延し、鴨川の河原には死体が転がる無常の嵐の中で、権謀術数の頂点に立たされた後白河法皇にとって、都の片隅で名もなき民が歌う今様だけが、唯一の精神的逃避所であり、魂を救済する聖域だったのです。

中川 明日香
著者

中川 明日香

エンタメ・カルチャー業界の深掘り取材を得意とし、現場のリアルな声をお伝えします。