多くの人が何気なく耳にしているコオロギの鳴き声ですが、その音色には明確なメッセージが存在します。鳴いているのは成熟したオスのみであり、メスには発音器官が備わっていません。オスが発する音声シグナルは、大きく分けて次の3通りに分類されます。
第1に、最も頻繁に耳にする「縄張り宣言(ひとり鳴き)」です。これは広範囲に自分の存在を知らせ、他のオスを牽制しつつメスを呼び寄せるための長距離ブロードキャストです。規則的で伸びやかなリズムが特徴で、秋の夜長を演出する音色の正体はほぼこの鳴き声にあたります。
第2に、メスが接近した際に見せる「求愛の鳴き声」です。メスの触角が接触するなどして存在を感知すると、オスは翅の振幅を小さく抑え、低く甘いトーンへとリズムを変化させます。人間が耳を澄ましてもかすかにしか聞こえないほど密やかな音であり、天敵に位置を悟られるリスクを最小限に抑えながらメスの交尾受容を促すシグナルです。
第3に、他のオスと鉢合わせた際に炸裂する「威嚇・闘争の鳴き声」です。鋭く激しい単発音を断続的に放ち、自らの体躯の優位性を誇示します。この鳴き声は非常に攻撃的なパルス波を含んでおり、相手が引き下がらない場合は噛みつき合いの喧嘩へと発展します。
これら多彩な発声を可能にしているのが、コオロギ特有の翅の仕組みです。右前翅の裏側には「やすり状翅脈(ストラディレーター)」と呼ばれる微細な突起が約100〜150個並んでおり、左前翅の縁にある硬い「摩擦片(スクレーパー)」を擦り合わせることで音を生み出します。さらに、翅の表面にある「ハープ」や「ミラー」と呼ばれる薄膜領域がバイオリンの共鳴板のように機能し、微小な摩擦音を一気に増幅して遠くまで響かせるのです。