搬送直後の現地病院および日本帰国時の第1報では「命に別状はなく、骨の異常もない」と発表され、関係者やファンは安堵の胸をなでおろしました。しかし、本当の試練は退院後の本格的な練習再開の場で待ち受けていました。
2020年2月上旬、日本代表合宿でラケットを握った桃田は、周囲に信じがたい異変を打ち明けます。「シャトルが二重に見える」。打球との距離感が全く掴めず、空振りやフレームショットを連発する事態に陥ったのです。直ちに受けた精密検査の結果、現地では見落とされていた「右眼窩底骨折」が判明。眼球を支える骨が陥没し、眼球を動かす筋肉が挟まりかけていたため、2020年2月8日に急遽、整復手術が行われました。
バドミントンのトッププロが打ち合うスマッシュは初速400km/hを超え、カットやヘアピンでは数ミリのラケット角度のズレが命取りになります。術後の経過について、桃田は当時のドキュメンタリー番組や手記の中で、次のような壮絶な胸中を告白しています。
「手術をすれば元に戻ると信じていた。でも、いざコートに立つとボールがブレて見える。相手のフォームも、シャトルの軌道も、これまで見えていた世界とまったく違う。『もう元の自分には戻れないんじゃないか』『バドミントンを辞めるしかないのか』と、夜一人になると恐怖で涙が止まらなかった」
眼球の動きやピント調節機能の繊細な狂いは、外見からは決して分からない「見えない後遺症(複視)」でした。肉体の傷が癒えても、アスリートの生命線である空間認識能力に狂いが生じるという、余人には計り知れない残酷な壁が立ちはだかったのです。