『読書』の中央に佇み、静謐な空気をまとってページを見つめる女性は、フランス・フォンテーヌブローの南に位置する小村グレー=シュル=ロワンの仕立屋の娘、マリア・ビヨー(Maria Billault)です。当時19歳前後だったマリアは、黒田清輝の芸術的才能を開花させた最大のインスピレーション源であり、彼のかけがえのない恋人でもありました。
黒田が残した日記や当時の書簡を紐解くと、1888年夏にグレー村を訪れて以来、マリアとの親密な交流が始まっていたことが確認できます。彼女は本作『読書』だけでなく、初期の重要作『婦人像(厨房)』や、後に日本で物議を醸す『朝妝(ちょうしょう)』のモデルも務めました。画中に漂う親密で落ち着いた空気感は、画家と被写体の間に築かれた深い信頼関係と愛情の賜物にほかなりません。
しかし、この恋が幸福な結末を迎えることはありませんでした。名門薩摩藩士の家系に生まれ、将来を期待されていた黒田にとって、フランス人女性との結婚は家父長制の重圧がのしかかる明治の日本社会では受け入れがたい選択でした。帰国にあたり、黒田はマリアと別れる決断を下します。愛した女性の面影をカンバスに永遠に留めた『読書』は、青春の情熱と引き裂かれた恋の切なさを内包した、極めてパーソナルな記念碑でもあります。