多くの患者が抱く根深い誤解に、「歯周病菌が直接、歯や骨を噛み砕くように溶かしている」というものがあります。病理学的な現実は異なります。骨を溶かしている張本人は、皮肉にも侵入した細菌から体を守ろうとする自分自身の免疫反応です。
歯周病菌が歯根表面に沿って深部に侵入すると、生体の防衛システムが作動し、マクロファージや好中球などの免疫細胞が集結します。これらの細胞が細菌と戦う過程で、炎症性サイトカイン(IL-1、TNF-αなど)を大量に放出します。この過剰な炎症シグナルが引き金となり、骨を壊して作り変える役割を担う「破骨細胞」を異常に活性化させてしまうのです。細菌毒素の直接的な侵入から生体深部(顎骨や骨髄)を守るため、防衛軍自らが「焦土作戦」として歯槽骨を後退させ、距離を取ろうとします。これが骨吸収の正体です。
一度失われた骨に伴って歯茎下がり戻らない理由も、ここにあります。歯肉の形態は、その直下にある歯槽骨の形態に完全に追従しています。土手である骨が吸収されて沈降すれば、その上に乗っている歯肉も当然ながら退縮します。さらに、歯根と歯槽骨を繋ぎ止めていたクッションの役目を果たす「歯根膜(しこんまく)」という微細な線維組織が炎症によって一度破壊されると、自力で元通りの位置に再付着することはありません。「丁寧なブラッシングを続ければ下がった歯茎が元の高さまで盛り上がる」という民間療法的な俗説は、解剖学的に完全な誤りです。