お笑い芸人として活躍していた猫ひろしが、国籍変更という極端とも言える選択肢を視野に入れた背景には、アスリートとしての冷酷な現実があった。日本国内のマラソン層は世界屈指の厚さを誇る。市民ランナーから本格的に練習を重ね、サブ2時間30分を切るレベルへ急成長を遂げた彼であっても、日本の五輪代表枠を争うトップ実業団選手たちの壁を打ち破ることは極めて困難だった。
そんな折、彼の並外れた走力と話題性に目をつけたのが、カンボジア陸上競技連盟関係者だった。当時、陸上競技の発展途上にあったカンボジアでは、国際舞台で国旗を背負って走る力のあるマラソン選手を求めていた。こうして両者の利害と情熱が一致し、帰化の手続きが具体化していく。
法律上の条件として、カンボジアにおける国籍取得には通常、長年の居住実績や言語能力などが求められる。しかし、同国の国籍法には国王の恩赦や国家への特別な貢献を前提とした「特別帰化」の規定が存在した。猫ひろし(本名:滝沢昇平)は、スポーツ振興と将来的な国際大会での貢献を期待される形で、この特例措置の適用を受け、2011年に正式にカンボジア国籍を取得するに至ったのである。