地中海東部に浮かぶキオス島(ヒオス島)は、古代から東西交易の結節点として栄え、豊かな文化を育んできた島です。この島が悲劇の舞台となった背景には、島特有の莫大な経済的特権と、1821年に始まったギリシャ独立戦争の複雑な力学が存在していました。
キオス島を特別な存在にしていたのは、世界中でこの島南部でしか高品質に育たないとされる薬用樹液「マスティック(乳香)」の独占生産でした。息を爽やかにし、医薬品や化粧品の原料となるマスティックは、オスマン帝国のスルタン(君主)の宮廷や後宮(ハレム)の女性たちに極めて重宝されていました。そのため、オスマン帝国の統治下でありながら、キオス島民は免税特権や高度な自治権を認められていたのです。当時の住民の大半はギリシャ正教徒でしたが、島には立派な学校や大図書館が立ち並び、住民たちは貿易商として地中海随一の富を築いていました。
ところが1821年、ペロポネソス半島を中心にギリシャ独立戦争が勃発すると、状況は一変します。本土の独立派勢力がオスマン帝国の守備隊やイスラム系住民を攻撃する中、キオス島の長老や指導層は「独立蜂起への参加」を明確に拒否しました。自分たちが享受している特権と富を手放す理由がなく、島がトルコ本土の目と鼻の先(わずか十数キロメートル)に位置するため、武力衝突になればひとたまりもないことを熟知していたからです。
しかし、平和維持を望んだ島民の思惑は、皮肉にも外部からの「支援」によって無残に打ち砕かれます。1822年3月、隣島サモス島から反乱軍を率いる扇動者リカウルゴス・ロゴテティスが、数百人の武装兵とともにキオス島へ強行上陸したのです。彼らは消極的な島民たちに革命への合流を迫り、島内のオスマン帝国要塞を包囲・砲撃しました。この無謀な挑発行為が、オスマン帝国中枢を激怒させる直接の引き金となりました。
オスマン帝国の第30代スルタン・マフムト2世は、この事態を単なる地方の一反乱とは見なしませんでした。帝国の特権を与えていたキオス島民が「最大の裏切り」を犯したと断定し、帝国全土の反乱軍に対する見せしめとして、徹底的な壊滅を命じる衝撃の決断を下したのです。すでにイスタンブールに送られていた島の名士や人質たちは即座に処刑され、カプダン・パシャ(海軍提督)カラ・アリ率いる大艦隊が、復讐の炎を燃やしながらキオス島へと出撃しました。