「せきをしても一人」尾崎放哉の壮絶な最期と孤独の真相|名句の原点

「せきをしても一人」尾崎放哉の壮絶な最期と孤独の真相|名句の原点

「せきをしても一人」尾崎放哉の壮絶な最期と孤独の真相|名句の原点の概要と注目ポイントを一挙に解説しました。

居場所を完全に失い、持病の肺結核が進行して喀血を繰り返すようになった放哉に、最後の救いの手を差し伸べたのが俳句の師・荻原井泉水でした。1925年(大正14年)8月、井泉水の斡旋によって、放哉は瀬戸内海に浮かぶ香川県・小豆島の西光寺奥の院「南郷庵(みょうごあん)」の堂守(庵主)として迎えられます。

この小豆島での生活こそが、放哉の文学が純化し、同時に肉体が朽ち果てていく最後の8ヶ月間でした。放哉の手記『入庵雑記』や井泉水に宛てた無数の手紙には、新天地に対する安堵と、貧困・病苦への赤裸々な喘ぎが記録されています。

「こんな良い庵はない。ここで死なせてくれれば本望だ」と書き送る一方で、南郷庵での生活は極貧を極めました。檀家からのわずかなお布施と、井泉水や友人たちからの仕送りだけが頼みの綱。しかし放哉は送られてきた金さえも酒や煙草に変えてしまい、食事も満足に取らずに床に伏せる日々が続きます。咳き込むたびに喉から血の味が広がり、冬の冷たい海風が障子の破れ目から吹き込む六畳間。この極限状態のなかで、自由律俳句の代表作が次々と産み落とされました。

「せきをしても一人」のほかにも、「墓のうらに廻る」「足のうら洗へば白し」「肉が痩せてくる太い骨である」といった句が、死を目前にしたこの南郷庵の薄暗い一室で書き留められました。そして1926年(大正15年)4月7日夜、放哉は隣家の住人に看取られることもなく、41年の屈折した生涯を閉じたのです。

山口 彩花
著者

山口 彩花

グルメと旅を愛するフリーライター。全国各地の隠れた魅力を独自の視点から紹介します。