「自分の出身地は、かつてどの国に属していたのか」という素朴な疑問は、日本人の歴史的ルーツを探る上で欠かせない出発点です。古代の律令期に定められた「令制国(りょうせいこく)」は、五畿七道(畿内・東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)の枠組みを基本とし、平安時代以降の変遷を経て江戸時代末期には68国(陸奥・出羽の分割前)が存在しました。この旧国名一覧と現在の都道府県の輪郭を見比べると、ほぼ一致する地域と、細かく分断・統合された地域との間に明確な歴史的断絶が見出せます。
1871年(明治4年)の廃藩置県が断行された直後、日本全国には3府302県という膨大な行政区分が林立していました。政府は統治の効率化を図るため、同年11月には3府72県へ、さらに1888年(明治21年)の香川県独立に至る過程で現在の47都道府県体制へと一気に集約を進めました。この統廃合の過程で、かつての国名と新たな県名の間で激しい主導権争いが繰り広げられた事実は見逃せません。
歴史研究者の間でも広く指摘されているのが、明治新政府が「朝敵」とされた旧幕府側諸藩の痕跡を消し去る意図を持っていたという構図です。たとえば陸奥国(東北地方)の主要藩であった盛岡藩や会津藩は、藩庁のあった城下町の名前を冠さず「岩手県」や「福島県」といった郡名や周辺町村の名が採用されました。一方、薩長土肥と呼ばれる維新の勝ち組諸藩では、鹿児島県や高知県、山口県のように旧城下町の名がそのまま県名へ引き継がれる傾向が顕著でした。都道府県の旧称詳細まとめを検証すると、近代日本の権力力学が地図の表記を根底から塗り替えた経緯が浮き彫りになります。