栃木県庁の移転を語る上で欠かせないのが、薩摩閥の官僚であり「土木県令」「鬼県令」の異名をとった三島通庸の存在です。山形県や福島県で自由民権運動を徹底的に弾圧し、強権的な道路開削を断行した三島は、1883年に栃木県令に就任しました。
当時、旧栃木町は豪商が多く経済力があり、政府を批判する自由民権運動の熱心な活動家たちが集まる一大拠点となっていました。県議会でも民権派の議員が多数を占め、官選知事である三島と激しく対立していたのです。
治安維持と反政府勢力の弱体化を狙った三島は、宇都宮への県庁移転を画策します。宇都宮は城下町としての歴史があり、軍隊(大日本帝国陸軍歩兵第2連隊)が駐屯する軍事拠点でもありました。県令就任からわずか数ヶ月後、三島は県議会の反対を押し切る形で内務卿・山縣有朋の認可を取り付け、電撃的に宇都宮への県庁移転を太政官布告で公布させました。
この強引な移転劇に激怒した民権派の青年たちが三島暗殺を企てたものの、事前に発覚して一斉検挙された事件が、日本近代史に名高い「加波山事件(1884年)」です。宇都宮への県庁移転は、単なる行政効率化にとどまらず、明治政府による治安統制の政治的産物でもあったのです。