力道山とは何者だったのか?空手チョップ伝説と死因の真相を追う

力道山とは何者だったのか?空手チョップ伝説と死因の真相を追う

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力道山が日本プロレス界に残した最大の功績の一つが、次代を担う後継者の発掘と育成です。その象徴が、昭和から平成のプロレス界を牽引した「BI砲」ことジャイアント馬場とアントニオ猪木の二人でした。

1960年、読売ジャイアンツの投手から転身した馬場正平と、ブラジル移住先でスカウトされた猪木寛至は、同日の4月11日に日本プロレスへ入門しました。力道山は、身長209cmの破格の体躯を持つ馬場を最初から「看板スター」としてエリート待遇で育て、一方の猪木には付き人として徹底的な理不尽と過酷な雑務を課しました。この対照的な指導法は、後に二人が全日本プロレスと新日本プロレスという対立する二大潮流を築く原動力となったと語られています。

関係者の回顧録によると、力道山の指導は苛烈を極めました。リング上での礼儀や受身の技術に対して一切の妥協を許さず、私生活においても厳格な徒弟制度を敷きました。しかし、リングの外で見せるビジネス感覚や観客心理の掌握術、セルフプロデュースの重要性を、若き日の馬場と猪木は師の背中から貪欲に学び取りました。両雄が確立した「王道」と「ストロングスタイル」は、すべて力道山という一つの源流から派生した思想でした。

また、力道山の家系図と子孫の歩みもプロレスの歴史と深く結びついています。力道山の実子である百田義浩(元日本プロレス・全日本プロレス選手、レフェリー)と百田光雄(元全日本プロレス・プロレスリング・ノア所属レスラー)の兄弟はマット界を支え続けました。さらに光雄の息子である百田力(リングネーム:力)もプロレスラーとして活動しており、力道山の血脈とリングへの魂は三代にわたって脈々と受け継がれています。

田中 結衣
著者

田中 結衣

グルメと旅を愛するフリーライター。全国各地の隠れた魅力を独自の視点から紹介します。