稀代の政治力で自らの命と三浦家の繁栄を全うした義村ですが、その死によって三浦氏の運命の歯車は狂い始めます。義村の築いた巨大な権力基盤は、そのまま北条得宗家(北条本家)にとって最大の脅威となっていたからです。ここで重要となるのが、三浦義村の家系図と子孫の足跡です。
義村の跡を継いだのは、嫡男の三浦泰村でした。泰村は第3代執権・北条泰時の娘を妻に迎え、幕府の評定衆として誠実に職務をこなす温厚な実務官僚タイプでした。しかし、次男の三浦光村は父譲りの武闘派で、北条氏に対する対抗心を露骨に燃やす血気盛んな武将でした。この兄弟間の足並みの乱れと政治的洞察力の不足が、三浦氏に致命的な破滅をもたらすことになります。
義村の死からわずか8年後の宝治元年(1247年)、第5代執権・北条時頼と、その外戚である安達景盛の謀略によって宝治合戦と三浦氏の滅亡が引き起こされます。安達景盛は、三浦氏の排斥を狙って挑発を繰り返し、衝突を避けようと苦慮する泰村を精神的に追い詰めました。最終的に光村の強硬論に引きずられる形で合戦に突入した三浦一族は、鎌倉の法華堂(源頼朝の墓所)に追い詰められ、泰村・光村兄弟をはじめ一族約500人がことごとく自刃して果てました。
義村が一代で築き上げた「北条と対等に渡り合う絶妙なバランス」は、彼個人の並外れた政治感覚と情報力に依存していた属人的なものでした。構造的な同盟関係ではなく個人の才覚に頼り切っていたがゆえに、カリスマを失った次代の三浦氏は、より冷徹で組織化された北条得宗家の権力集中システムに飲み込まれてしまったのです。