慶長5年(1600年)10月1日、関ヶ原の敗戦から捕縛された小西行長は、石田三成、安国寺恵瓊とともに京都の六条河原へ引き据えられました。武士にとって戦に敗れた際の自害(切腹)は家名と誇りを守る唯一の手段でしたが、行長は堂々と斬首を受け入れます。
この行動の根底にあったのは、敬虔なキリシタン大名としての信仰です。天正11年(1583年)頃に洗礼を受け、洗礼名「アウグスティノ」を授かった行長にとって、キリスト教の戒律である「自死=神への冒涜」を破ることは死後の救済を失うことを意味しました。当時のイエズス会年報やルイス・フロイスの記録にも、行長が死の間際まで十字架を掲げ、主の祈りを唱えながら従容として刃を受け入れた様子が克明に記されています。武家社会の規範よりも自らの宗教的良心を最優先にした彼の最期は、単なる敗残兵の無念ではなく、殉教としての崇高な覚悟に満ちていました。