「自由律俳句に季語はあるのか?」という疑問に対する結論は、「季語を使っても使わなくても自由」です。学校教育などで「俳句=五・七・五+季語」と教え込まれてきた読者ほど、「季語のない俳句など存在するのか」と困惑しがちですが、自由律俳句の歴史的な出発点そのものが季語の絶対性に対する異議申し立てでした。
大正期、荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)が主宰した俳誌『層雲』によって本格化した自由律俳句運動は、江戸時代から続く伝統的な形式主義を打破することを目指しました。井泉水は「俳句の本質は型や季題にあるのではなく、作者の生々しい実生活と内面感情の率直な表白にある」と提唱。自然のめぐりを詠む約束事である「季題(季語)」の義務を取り払い、十七音という枠組みも解体したのです。
実作の現場における自由律俳句の季語ルールは、極めて柔軟です。季節の風物を表現に不可欠と感じれば季語を織り交ぜても問題ありません。ただし、歴代の名作を見渡すと、季語にとらわれない「無季」の作品が全体の約8割以上を占めているのが実情です。季語に頼らずとも、選ばれた言葉の温度感や湿り気によって、読者に生々しい情景を喚起させる点に自由律の真髄があります。